備中良寛さんこころの寺巡り

円通寺 / 長連寺 / 洞松寺 / 大通寺 / 長川寺

第一番 円通寺

 補陀洛山・円通寺はもともと奈良・天平の昔から観音霊場の信仰の地でした。ここには行基作と伝えられる聖観音様が祀られ、人々は霊験あらたかな「星浦観音」と呼び、信仰していました。

 連綿として続いた信仰の灯も徳川中期ごろには一時寂れ、観音堂も荒廃し、観音様も雨露にさらされる状態となりました。

 当時、この地方には豪雨による災害や疫病が流行「星浦観音」のたたりという風聞が広がりました。たまたま当地明崎に加賀・金沢の名刹大乗寺住職を退いたばかりの高僧徳翁良高和尚が滞在していました。

 良高和尚は柏島・海徳寺の一桂活道、西江原・永祥寺の竿頭円刹、鴨方・長川寺の独秀 雄和尚の協力を得、庄屋の西山源右衛門をはじめとする村民百十七名の連判状を手に寺社奉行に嘆願、堂宇を再建しました。

 元禄十一年(1698)のことです。ここに良高和尚を開山として補陀洛山円通庵が開創されました、その後円通寺と改められ多くの高僧が住持して寺格があがり特に十世大忍国仙和尚は多くの俊英の弟子を育成しました。その一人、越後生まれの良寛は二十二歳から三十八歳頃まで当山で修行、その後全国を行脚して聖僧と慕われています。十一世玄透即中和尚は後に永平寺五十世として本山の中興の祖として仰がれました。

 又、現在円通寺は僧良寛修行地として岡山県史跡に、円通寺公園は岡山県名勝地に指定されています。

第二番 長連寺

 倉敷代官菩提寺五台山長連寺は、良寛さんの師、大忍国仙和 尚が中興三世(実質上の開山)として天明五年(1785)に再興された。

当山は天正年間、猿掛城主毛利元清公の菩提寺として、小田郡矢掛町の洞松寺四世霊岳和尚の法嗣霄巖和尚が、洞松寺の隣宇を消失した。元禄年間、円通寺開祖徳翁良高和尚が寺籍を譲り受けたが意の如くならず再興も沙汰已みとなった。その後良高和尚の法孫大仙無着和尚が宝暦十年(1760)時の代官浅井作右衛門の誓願もあり、円通寺末として寺籍を当倉敷の地に移転二年(1762)開創した。しかし、志半ばにして諸堂整備の完成ならず、円通寺十世国仙和尚に後事を託して遷化した。そこで国仙和尚は法嗣国文和尚に命じて工を司らしめ天明五年(1785)竣工の時を迎えた。その故をもって国仙和尚を中興三世、国文和尚を四世とした。その後、国仙和尚の法嗣が相次いで住職しているので、良寛さんもしばしば出入りしたものと思われる爾来、当山は倉敷地方唯一の曹洞禅寺として、倉敷代官の菩提寺として、代官並に一般庶民の帰崇する所となり今日に及んでいる。

 良寛さんは晩年の自画像に「是は此れ誰そ大日本国国仙の眞子良寛」と大書している。

 良寛さんは、国仙和尚の弟子であったことを最高の誇りとし求道一筋の生涯を生きられた。又、国仙和尚の後円通寺十一世住職となられ、後に大本山永平寺五十世中興として本山の改革に務められた曹洞宗門の大徳、玄透即中禅師は「国仙師は日国禅林間出の仙と、日本に時たまあらわれる程の大徳である」と喝破し、その遺徳を讃歎している当山には、国仙和尚の木像、玄透禅師が碑文を刻まれた墓石外護の郡屋清兵衛さんに当てた覚書きなどが残されている又徳川家康公の位牌を本堂内に奉安している。

第三番 洞松寺

 矢掛町の南端、遙照山のふもと、深い緑に囲まれた舟木谷に洞松寺はある。舟木山の山号はこの地が神功皇后の朝鮮出兵に関して、兵船のための舟材を献じたことに由来し、「洞松の司」という地名をうけたという。

 古代天智天皇の行幸の時南都興福寺の光照菩薩をまつり、仏閣を建立し、舟木山洞松司院として開創され、のちに和気氏により、七堂伽藍が整備され三十六坊をもつに至った。

 安徳天皇臨幸のとき、船破却し、舟材を献じ洞松司院を洞松寺と称すと伝えられる。

 中世期、寺運衰退していたが、室町期末、喜山性讃禅師は(大本山総持寺百世)応永十九年(1412)、猿掛城主庄駿河守の帰依をうけ、洞松寺を中興開山し、師恕仲天 禅師を勧請開山として、自ら第二世となった。布教数年にして、四方より修行僧があつまり大道場となった(喜山性讃・恕仲天 頂像は岡山県指定重要文化財)

 また、五世崇芝性岱和尚より輪番住持制が確立され(末山・門葉の住職が順次交代し、住職争いや、門葉の分裂をさけ本寺の発展を期する制度)江戸時代の明暦年間(1656~58)まで約二百年間に八十世に及んでいる。この間名僧があいつぎ住職し、四人の住職が禅師号を受けている。

1:佛通活性禅師(九世)
2:正覚大鑑禅師(十五世)
3:慈光禅師(五十七世)
4:佛心円明禅師(六十世)

 この間多くの門葉寺院が開創され、直末四十二ヶ寺、門葉寺院壱千余ヶ寺となり喜山派の派頭寺院となった  中世古文書五十余通は岡山県指定重要文化財となっている。伽藍は二ノ門・山門・開山堂を直線に配置し庫裏・坐禅堂、衆寮、接賓がとりかこみ一円相をえがく、近世地方禅院の特色をよく伝えている。

 第十四世賞山覚了東堂和尚の葬儀は天明二年(1782)七月十一日に行われ、多くの隨喜僧の中「に大愚上座」の記事があり、円通寺修行時代の良寛の姿を彷彿とさせる記録がある。

第四番 大通寺

 当山は旧山陽道宿場町矢掛の北方約ニキロ、吉備高原の南麗、小林高峰山の山麓の谷間にある。開創は奈良期、天平年間東大寺承天師(寺の事務長)による。鎌倉初期後鳥羽院の勅願寺として山麓の現在地へ移転し、室町期、実峰良秀禅師の嫡流月渓良掬和尚きたり洞門寺院となり法燈連綿として三十三世成浩代になっている。この間、平安後期に不空羂索観音<康和元年(1099)の銘文あり、県重文指定>をまつり、近世初期毛利輝元公の病気平癒の祈祷により、毛利家祈願所となった。建物については、江戸期宝暦九年(1760)、に坐禅堂衆寮が建立され順次諸堂建築され、洞門寺院の様式を伝えている、その後の境内・庭園(県名勝に指定、寛政五年(1793)から築庭)も整備された。坐禅堂は中央に来迎柱、仏壇、ニ方単(踏床を用いる)などの古式の禅堂であり、洞門寺院内で、県下最古の禅堂である。洞門僧侶・雲水が各地より参集し、摂心等の行事もなされ寺門が興隆した。末寺は十五ヶ寺あり、「小本寺格」であった。

 小林地内の僧都(そうず)地区内に、玄賓庵址や墓がある。玄賓<奈良期の法相宗(興福寺)の人で、備中各地に隠栖して、渡し守、馬方となり、溜池築造など農業の向上にも寄与した>を慕う玄透即中(圓通寺十一世、永平寺五十世)は、中国山地、西来寺、湯川寺、大椿寺などの備中国内各地の玄賓遺跡を巡錫(巡行)している。「良寛ひとり」の著者津田さち子先生は、この時期「高僧伝」を読み「僧の清貧を尊いすがただと思う良寛は玄賓の跡を訪ねているのではないか。」といわれ、備中各地を探訪していると思われる。

 昭和五十五年、曹洞宗岡山県青年会と第一、第二教区寺院によって、良寛和尚百五十回忌記念事業委員会(委員長大通成浩) を結成し、顕彰運動(百五十回忌法要、全国名僧墨蹟展、献血運搬車「良寛号」寄付、玉島の子供たちへ「手まりの家」寄進、「大忍国仙禅師伝」「岡山県門派史料」発刊)を推進した。

 平成九年堂松寺古文書調査にて、郷土史家妹尾秀彦氏とともに、洞松寺葬儀記録の中「大愚上座」<天明二年(1782)椀頭・竹ペイの各配役にて随喜>の史料に出会う事が出来た。お慕いしていると、めぐり会えるのではないか、めぐり会いの不思議に合掌しているところである。

第五番 長川寺

 当寺は、源三位頼政の裔、金光占見西山城主、近江守西山源五郎宗久公(正眼院殿華庭栄公大居士・正中二年(1325)歿)を開基とする古刹であるが、禅門の修行道場としての偉容をととのえたのは、応永十九年(1412)英巖章傑禅師を開山として拝請してからである。

 思うに、備中守護細川満国公が、初代鴨山城主として君臨したのが応永十四年であることから推論すれば、武家の禅門帰依の時代的風潮の中にあって、過去百年余りの宗旨を改め、禅門寺院として再開山したものと考えられる。以後、鴨山城主細川公の菩提寺としての興隆・変遷の歴史を綴る。

 因みに、長川寺什物の中に、「円通寺開山徳翁良高禅師書」の「当寺開山英巖章傑禅師木像安座法語」と称する軸物が現存する。この事実は、今昔を問わず、寺門交流の因縁の深さを如実に物語る証しとも言えよう。 いわば、寺門の年分行持等に衝いて、師増・弟子共々、相互に随喜加担することが、通常的習慣であったとも想像できる。

 加えて、それらのことは、円通寺十世大忍国仙禅師の会下にあっても、継承し続けられていたと推測される。同時に、そこには若き日の修行僧「良寛」の姿とて、当山十五世徹岩観底和尚の顔前に見受けられはしなかったか。

 これらは、「良寛研究」をライフワークとして、一途の生涯を貫いた当山三十世規道彰準和尚の憶測ならぬ持論でもあった。

 そこで、その前任の遺徳顕彰の意図を含めて、「良寛文庫」なるものをささやかに設置し、「良寛の心」を糧に更なる生き甲斐を求めようとする地域の人達に、研修の場としての門戸を開いている。