円通寺について

円通寺について / 世代の法系 / 聖観音菩薩 / 愛宕様

りょうかんさん修行の寺『円通寺』

円通寺の山上、石組の庭と葦屋根の荘重な伽藍が配置された境内は、訪れる者に、精神世界への自らなる敬仰の念を抱かせる場として久しく伝えられております。昭和43年には名勝地として岡山県の史跡指定をうけ、また全山は倉敷市営の円通寺公園として近隣諸県にその名を知られております。

円通寺の歴史は古く約1200年前、現在の倉敷市玉島の地に行基菩薩によって星浦観音の霊場が開創され、 その後、元禄11年(1698年)徳翁良高禅師によって曹同宗寺院として開山されました。

爾来300年、代々の住職には名僧多く特に第十世大忍国仙和尚の代、若き日の聖僧良寛様が22才から十数年 修行された禅寺として、当山は生地越後(新潟県)のみならず全国崇敬者の間に広く知られております。

現和尚(29世) 活龍 仁保哲明
29世現住職 活龍哲明 
(仁保哲明)

円通寺までのアクセス

名称 円通寺
住職 29世現住職 活龍哲明(仁保哲明)
所在地 〒713-8123
岡山県倉敷市玉島柏島451
連絡先 TEL:086ー522ー2444
駐車場 バス:10台(無料)、車:100台(無料)
札所等 中国三十三観音霊場7番札所
山陽花の寺二十四か寺17番札所
備中国浅口三十三観音霊場一番札所
百八観音霊場第九番札所

電車でお越しの方

JR山陽本線・新倉敷駅からバスで玉島中央町下車、徒歩約10分

車でお越しの方

山陽自動車道・玉島ICから 約10分

円通寺世代の法系

開山
1世
徳翁 良高 和尚  加賀の国金沢の大乗寺の住職を退いた高僧徳翁良高和尚が当地の明崎久々井)の
韜光庵に滞留していたので、柏島海徳寺一桂活道、西江原永祥寺竿頭円刹、
鴨方長川寺独秀鷟雄和尚等の協力を得、庄屋の西山源右衛門をはじめとする
村民117名は連判状を手に社寺奉行に誓願して堂宇を再建すると共に、
良高和尚を開山として迎え、元禄11年(1698)補陀洛山円通庵が開創された。
2世 雄禅 良英 和尚  駿河の人、良高の法嗣、師の活作略は、正徳4年(1714)円通寺と改称した。
3世 蔵山 良機 和尚 良高の法嗣、碩学の誉れ高く、後西院天皇の皇女光照院尊果女王の学術師範を
つとめた功により「円通寺」元文3年寺号勅額を賜る。
4世 大義 宗孝 和尚 良高の法嗣、享保12年に住し、数年にして加賀天徳院20世に転任した。
5世 梅橋 素雪 和尚 良高の法嗣、修行道場の威風の高揚に務め住山十餘年にして、神戸般若林に転住した。
6世 兀甎 恵鏡 和尚 宗孝の法嗣、備後玉泉寺より延享年間に入山した、寛延4年寺格を別格随意会地に
昇格した。先住につづき神戸般若林に転住した。
7世 大底 元石 和尚 元燈の法嗣、道元禅の真髄「心身脱落」の、求道三昧の先達となる。
8世 孝淳 良筍 和尚 宗孝の法嗣、備後玉泉寺より入山す。
9世 鉄文 道樹 和尚 素淵の法嗣、全国に嗣法した国仙が立職した。(例外)国仙が法幢師として仰いだだけに、
家風豪快、学徳兼備、「鉄文道樹和尚百則評頌」や語録がある。
道樹和尚頂相自賛
円融法々透坤維 雙照雙忘也太奇
喪尽生涯塵刹裡 隠明顕暗是阿誰
10世 大忍 国仙 和尚 全国の法嗣、聖僧良寛に代表される如く、約30人の育成に専念し、
禅門師家としての面目を誇示すると共に、寺格を最高の常恒会地に昇し、
又伽藍の再興など寺門興隆の基盤を確立した。
11世 玄透 即中 和尚 官慶の法嗣、円通寺では「円通応用清規」を編した、剛毅果断、学徳兼備、の誉れ高く、
幕府の進言により、永平寺50世を拝命、宗門屈指の傑僧であり、その名声は、
宗史に歴然としている。光格天皇より「洞宗宏振禅師」を賜る。当寺の定紋が、
永平寺と同じ「笹竜胆」である理由は玄透禅師住山の因縁に由来するものである。
12世 灯外 禅灯 和尚 玄透の後任として、円通応用清規に基く法灯を継承する。
13世 復庵 遵古 和尚 玄透の高弟、在住数年にして大阪鳳林寺へ転住す。
14世 法厳 嶺運 和尚 玄透の法嗣、文化4年開山良高和尚100回忌、遺徳顕彰の大遠諱大法要を修した。
15世 桃嶺 義仙 和尚 道樹の法嗣、曹洞禅の研鑽に努め、大衆に一如するも在住僅かで、尾張泉勝寺へ転住す。
16世 大霊 嫩芝 和尚 国仙の法嗣、文化元年晋住する。天台宗を中心とする在家仏教興隆の地域の中にあって、
禅門修行道場としての威風を堅持し、雲水修行に徹する。
17世 嶺外 覺林 和尚 玄明の法嗣、文政3年安芸国阿弥陀時より晋住し、在住7年師承として真面目を呈露し、
加賀の天徳院19世に晋住する。
18世 定水 慧山 和尚 天徳院雲海の法嗣、金沢龍徳寺より晋住。在住18年の間、激動する時代的背景の中にあっても
禅門修行の軌範に則り、孤高の精神を尊び、門風護持に努めた。
19世 覺厳 心梁 和尚 復庵の法嗣、弘化2年当山に晋住す。石窓庵と号し、歌人としても才覚も広く知られ、
学僧としての知名度も高かった。

何事も 心に叶う 君が代の
喜ぶ文字の 年に逢ふかな
七十七翁覺厳
20世 太中 古禅 和尚 兆淳の法嗣、安政3年入山、曹洞禅の宣揚に献身し、当時修行僧が20人、高田道見師は、
仏祖三経等講じていたのを傍聴したという。
21世 祖山 智門 和尚 梅禅の法嗣、明治8年晋住、明治維新の改革的思汐に抗しつつ、禅門の遺風を継承した。
22世 元孝 義道 和尚 沢重の法嗣、明治17年晋住し、普門閣を建立した。この建物は後年本堂に隣接した
僧堂跡地へ移転され、白雲関と改称して、現在は座禅堂として活用している。
23世 梅谷 香雲 和尚 翔雲の法嗣、明治26年
24世 世虚 谷翠厳和尚 即法の法嗣、玉島阿賀崎島谷庄八三男。金光の禅光寺、尾張の長澤寺、玉島海徳寺を
歴任して明治26年に晋住した。
25世 徳慶 戒全 和尚 海徳寺亮禅の法嗣、明治38年当山に晋住する。昭和6年には良寛詩碑が建立され、
翌年その除幕式と良寛百回忌法要を盛大に催し、良寛修行のて由緒ある禅門寺院として
名声を天下に広めることとなった。
26世 黙室 泰定 和尚 戒全の法嗣、備後向島の出身、駒沢大学を卒業後、昭和12年海徳寺に住し、15年当寺へ晋住した。
秀才の誉れ高く、その豊かな才覚に壇信徒の期待も大きかったが、若くして病魔に倒れた。
27世 中興大勇活禅和尚 活暁の法嗣、広島県東城町に生る。海徳寺を経て昭和17年に晋住するや、
良寛の遺徳顕彰を終生願行として、良寛修行の往事に因む諸堂の復興に努めるかたわら
玉島文化クラブを組織するなど、その業績は多伎にわたる。特に昭和24年には、
聖良寛奉賛茶会を催し、以降毎年開催し、岡山県下の三大茶会の一つとして
遠近に知られるようになった。
昭和41年には、山頂に「童と良寛像」の巨大なる石像、そして翌年には良寛歌碑も建立された。
教化活動として特筆すべきものに、昭和25年より参禅指導がある。
僧堂跡地へ普門閣を移し、白雲関と改称して座禅堂としている。
中学生を対象とした夏期暁天参禅会を開くなど、その白雲会の組織は、円通寺外護の
重要な一翼を担っている。
28世 大安 憲道 和尚 活禅和尚について出家得度、昭和44年晋住。「良寛の心を現代に生かす」
ことを志す各界の知識人の要請に応えて、各種行事の企画、運営、に専念する一方、
「矢吹活禅和尚頌徳碑」の建立をはじめ、「修行時代の良寛菩薩像」の建立、大梵鐘の再鋳、
位牌堂等の伽藍の修復、加えて中国地方33観音霊場開設等々、寺門興隆の道を開き、
在家の菩薩の育成に努めた。
29世 活龍 哲明 和尚  活禅の嗣道基の法嗣、重林寺より62年6月晋住

円通寺・聖観音菩薩

約1200年前の作

行基作とされている重要文化財です。

今回の平成の伽藍大改修に伴い仮移動した時撮影したものです(1998.4.25)


本尊様


本尊様・接写(拡大写真)

愛 宕 様

火神、雷神、が御神体と云われる。

阿多古神社、愛宕神社、の神名あり、祭神は軻遇突智之命(カクツチノミコト)、火産霊尊(ホノムスビノミコト)、として蹈鞴(タタラ)、竈(カマド)の守護神。

桓武天皇、伝法寺を建立し愛宕山大権現と号し鎮護国家の道場と為す。

本地垂迹説(ホンチスイジャクセツ)、愛宕大権現、将軍地蔵尊。

鉄器文化伝来は蹈鞴を御神体とした軻遇突智之命(嚇土命)信仰が起こる蹈鞴、竈は火に通じ火の守り神として信仰も盛んになる。
本地仏、将軍地蔵尊は甲冑に身を固め神馬に跨る勇壮な地蔵尊で平安期坂上田村麿、足利尊氏が戦勝祈願をし大願成就する、此れにより中世愛宕信仰が盛んになる。

円通寺は、開山の縁起に有るように代々玉島の町を守る寺として、玉島の繁栄を祈願してきた。
愛宕様の勧請は、当山3世蔵山良機和尚、夢で庶民を悩ます雷神を捕らえて山頂の大岩に閉じ込めた、改心した雷神は庶民の大願成就を約束した。
良機和尚は、愛宕殿を建立し此れを祀り庶民の信仰を集めたと伝えられる。

以来玉島の町は大いに繁栄したが、明治維新の後、廃仏棄釈により、祭神を(ヒノヨケハヤオノカミ)と改め仏刹を廃した折り、円通寺の愛宕様も廃くなったのではないかと思える。
此度、21世紀を迎えるに当たって火神、雷神、が御本体でもある愛宕大権現のエネルギーをもって玉島の町に活力が漲るようにと祈願して、愛宕殿の再興を発願致しました。

愛宕殿の再興なる

愛宕殿再興落慶式